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ご家庭でも簡単に作れるチーズケーキ

2011
19
July

チーズケーキは、ご家庭でも比較的簡単に作ることが出来るケーキです。材料も普通のスーパーで売られているもので十分です。失敗も少なく、スイーツ作り初心者の方にはぜひチャレンジしてもらいたいケーキです。また、家に電子レンジがなくてもチーズケーキを作ることが出来るのをご存知でしょうか?炊飯器でチーズケーキを作ることもできるのです。炊飯器の釜で材料を混ぜて炊飯スイッチを押すだけ、というレシピもあります。手軽で安全、後始末も簡単です。ぜひおススメです。 チーズケーキを作るのは、意外と簡単です。まず、材料をすべてフードプロセッサーの中に入れます。そしてスイッチを入れてかき混ぜます。次に、それを型の中に入れます。そして、オーブンで焼きます。焼きあがったら、オーブンから出してそのまま冷まします。粗熱がしっかりととれたら、冷蔵庫に入れて冷やします。私の経験上、一日冷蔵庫で冷やしたものが一番おいしいです。チーズケーキというのは、ケーキの中で一番作るのが簡単なのではないでしょうか。ぜひチャレンジしてみてください。
【安藤慶太が斬る】

 少し唐突かもしれないが、まず神戸港の取り扱い貨物の年次推移のグラフがあるので見てほしい。グラフを見て、平成7(1995)年に取り扱い量が激減しているのが分かる。阪神淡路大震災の影響である。震災で神戸港も甚大な被害があったというわけである。

 神戸はじめ日本中が「がんばろうKOBE」を掲げ、被災地を支え、もり立て、献身的に頑張った。国もいろいろな手を打ち、復旧や復興に全力を尽くした。被災された方々も大いに頑張った。神戸港のグラフは徐々に右肩上がりに回復基調を見せたのだった。

 ところが、問題はその後だ。グラフは突如、再び失速し急降下する。そして再び立ち上がることはなく震災直後の水準で推移している。

 理由ははっきりしている。韓国の台頭である。拡張された釜山港が大きく取り扱い貨物量を増やした結果、あおりを受けた神戸港は凋落(ちょうらく)したまま、その後塵(こうじん)を拝する位置に甘んじているというわけである。

 ■神戸港の教訓

 関係者の間では周知の事実なのだそうだ。阪神淡路大震災から10年が経ち、神戸の街並みの見違えるような姿を見て、順調に神戸は復興した、と漠然と考えている人は案外、多いのかもしれない。

 取り扱い貨物量だけのデータをもって神戸の経済復興全体に話を飛躍するのもどうなのか、というのはある。被災した方々の努力や踏ん張りに水を差すつもりもない。だが、震災の復興とはそう簡単な話ではない。そういうことが言いたかった。現実は厳しいのである。このグラフはそんなことを如実に物語っていると思えるのだ。

 一度失った取引量は二度と回復できないのかもしれぬ。心意気や矜持(きょうじ)は大切だが、どうにもならないことはある。そういうことも肝に銘じて臨むべきなのだ。いったん生産が滞り、納品が遅れたり、あるいは部品調達が脅かされたりすれば、取引上の信用はもう返ってこない。商売敵はそこを見越して取引を奪い、切り崩してくる。そして一度奪われた失地はそう簡単に取り戻せない。グラフを見ながらそんなことを考えた次第だ。

 ■不安定こそが問題

 東日本大震災を通じて私たちは多くのことに気づいた。原発の危険性も目の当たりにした。福島の原発が停まれば、会社にすら歩かなければ行けないことも知った。いかに私たちの暮らしが電気で支えられているか。連日の暑さで寝苦しい日もある。エアコンの温度を抑制気味に設定するさいにもそうしたことは否応なしに考えさせられる。

 「がんばれ日本」「絆」…と様々なスローガンを耳にする。自分を鼓舞し、奮い立ち、皆が一丸となるためにもこうしたスローガンは重要だとは思う。

 ただ、それだけに菅直人首相が脱原発依存を口にするのは無性に腹が立つ。前々回のこのコーナーでも書いたことだが、今政府がやるべきことは電力の安定供給である。そういう態度が見えないのだ。見えないどころか、真逆の態度すらとっているようにも思える。「日本をつぶす気か」という疑問すらわく。

 電気というのはあれこれ工面して供給が需要を上回ればいいという話では決してない。一刻も早く、安定的な電源を確保しなければ、企業活動が脅かされるのだ。毎年夏が来るたびに、こうしたことを思案せざるを得ない不安定な状況こそがまず解消されるべき問題なのだ。

 ■願望はもういい

 必要なのは遠い将来の願望に基づく政治行動ではない。今の国民の暮らしや命をいかに守るか、という切実かつ地道な問題であって堅実な政治行動が要求される。要は、今直ちに原発を補完するだけの代替エネルギーがない以上、原発を停めるという選択肢などありえないはずだ。

 まして脱原発依存と掲げて翌日には閣僚にすら文句を言われ、「あれは個人的見解でした」などとお茶を濁している。一国の首相としては情けないし、これほどみじめな状況はない。

 20日の衆院予算委員会でのことだ。海江田万里経産相は菅首相の「脱原発」表明について「首相が個人的発言と言っており、それを共有しているかどうかは鴻毛(こうもう=おおとりの羽毛)より軽いと思う」とバッサリ斬った。脱原発を内閣で共有する必要はないとの認識を示し、公然と首相の方針に異を唱え始めたのだった。

 国会質疑で身内の閣僚からあれほど愚弄される首相を初めて見た。閣内不統一などというレベルではない。内閣の体すら成していないバラバラの状況だ。

 ■調査報告への雑感

 様々なシンクタンクの提言のなかには、使用電力とGNP(国民総生産)との相関関係からGNPが1%ダウンと導いた報告もあった。

 1%? 正直、そんなもので済むのだろうか? という気分だ。控えめに見積もっているのではないかという印象だ。GNPと雇用データの相関関係から来年まで節電が強いられた場合、最低でも18万人の失業者が全国にあふれるという提言も読んだ。無論、時々刻々事態が変わる以上、寸分違わぬ未来予測など不可能だというのは大前提だ。

 一方、なかにはこうした報告を「節電による効果が踏まえられていない」などと批判し「原発がなくても大丈夫」と結論を導く調査報告だってあるにはある。

 また巷からは「実は埋蔵電力はものすごい規模で存在する」といった話も聞く。工場や企業の持つ自家発電をフルに使えば、「原発など要らん」のだそうだ。いずれも学者の空論か私たちを惑わす眉唾の類にしか思えてならない。

 ■埋蔵電源をあてにする愚

 埋蔵電源については、菅首相もこれを頼りにして、発掘調達に号令を掛け、はっぱをかけているらしい。それが思うようにいかずにいらいらしているという報道もあった。

 そもそも埋蔵電源って発電機がさび付いていても、倉庫に放置されていても埋蔵電源としてカウントされているのではないのか。その運転にいくらのコストがかかるのか。それが定かではないし、一体個人や民間企業が所有している個人資産の類を公共のために供するのであれば、それなりの手当てが必要だろう。国家総動員法か。それとも「刀狩り」ならぬ「発電機狩り」のような施策か。

 埋蔵電力を掘り起こし、仮にコストの課題がクリアされたとする。しかし多くが非常用電源として用意された(であろう)自家発電を誰が責任を持って継続的に運転させるのか。何の手当てもせずに、あてにできる話ではない。

 民間の電力会社に埋蔵電力の買い取りを義務づけるにしたって、クリアすべき法的問題点やコスト上の課題はそれなりに横たわっている気がする。そういう手当を一切せずに、ただ、探せ! と大号令をかけるだけではダメだ。自家発電機がいくら転がっていても、それだけの話だろう。少し考えれば分かる話だ。

 ■あてにならぬ節電効果

 また一部で聞かれる悲観的なシミュレーションについて「節電効果を踏まえていない」「節電すれば原発なくても大丈夫」といった批判も結論を導くための無責任な提言のように思えてならない。

 まず、自分は15%の節電をしているか、と自問自答してみる。明らかな無駄を省くような取り組みは可能でも、「自分は15%の節電生活を営んでいる」と自信を持っていえる人はどれだけいるだろう。強制的に電気を15%カットされて送られてきたならともかく、そうではないのである。検証のしようがない話だろう。

 誰もがいつでもエアコンの温度を下げることは可能な状況で処罰されるわけでもない。これからどれだけ暑くなるのかも分からない。そういう、節電頼みで乗り切ろうという、心許ない状況のなかで、節電努力を計算の枠外に置くのがけしからん、という方が堅実さに欠ける気がするのである。

 それに節電を前提にした社会って産業政策としてはとてもいびつでどうなのよ、というのはある。ある企業が日本に進出するか、隣の国に工場を建てるか、を思案していたとする。日本だと無条件に節電15%を課せられるなんて言ったらどうなるだろう。それは、産業集積を国として放棄したに等しい話だ。

 節電の効果を盛り込んでいないという批判は、むしろ、盛り込まない方が堅実だと思える。私たちの節電ほどあてにならないものはない。そういう前提で考えた方がいいと思える。

 ■失地は還らず

 もうひとつ。冒頭の神戸港の例でも触れたが、一度なくした失地は決して戻ってこないという厳しいセオリーもよく考えておく必要があるということだ。今企業の七割が海外移転を考えているのだそうである。特に玄海原発のある九州や浜岡原発のある中部地方には自動車工場が沢山ある。いわば国力の源である。もしこれが海外に移転したら…5年経って、原発を補える十分な風力発電所を用意しました、戻ってきて下さいといったところでもう後の祭りである。そんなにやすやすと戻れるはずがないのである。

 火力への転換も然りである。火力に転換したら電気料金が一般家庭で月1000円の値上げという話があった。それだけでも企業にしたらとんでもない話だ。

 ■エネルギーの争奪戦も

 経済の台頭で中国は今、資源から食糧、水資源調達に至るまで世界中で盛んに蠢(うごめ)いている。

 例えば、中国人がアベレージで今の日本人と同様の栄養を摂取するとする。当然そのためには莫大(ばくだい)な穀物が必要な話だ。それは世界中の食糧状況を一変させる要素である。

 電気も然りである。仮に中国が今の日本と同等に、皆が車を走らせ、電気をふんだんに使う暮らしを始めた場合、どうなるか。重油だって未来永劫(えいごう)、安定的に今と同じように確保できるという保証はないのではないか。

 エモーショナルな脱原発依存が掲げられた結果、火力発電がフル稼働するのは避けられないのかもしれない。では火力発電を動かすための重油確保が困難になったらどうするのか。著しい値上げに悩まされる事態だって将来、起こりうるではないか。

 そもそもわが国が原子力発電の拡充に乗り出したのはオイルショックでの原油の高騰という苦い経験を経て以降の話だ。どうすればエネルギーを安定供給できるかを考えた末に始まった話だ。遊びで始めたわけでもなければ、福島の人をいつか困らせてやろうと思って始めたわけでは決してないのである。

 ■願望とあるべき姿を論じるにも電気は必要

 東日本大震災を機にエネルギー供給のあるべき姿を真剣に考えることは重要だろう。だが、あるべき姿を模索し、議論し、合意形成して、それに向かっていく過程においても電源は片時も休みなく必要なのである。

 そうした現実を踏まえると、とりあえず動かせる原発は動かす。動かしながら考えていく。原発の津波対策は取り組むべきテーマではある。地震や津波はいつ訪れるかが分からないだけにいずれ、合理的な対策を講じる必要はあるが、だからといってこれから365日連日、津波が原発を襲うという事態は想定しづらい。

 一遍の曇りなき安全性が確保されるまでは絶対動かしてはならないという発想自体がいかに窮屈で現実を無視して皆のためにならないか。動かしながら、より良い安全対策を考えていけばいい。私はそれが最も現実的で堅実な判断ではないかと思う次第である。(安藤慶太社会部編集委員)

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